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2010年9月9日対中日戦において阪神・平野恵一選手が「(二)右左右左右左」、
西村憲投手が「右左右左右」という守備位置変更を記録し話題になったが、
過去にはこれを超える回数の守備位置変更を記録した選手が選手が存在する。
1試合の中で守備位置を変更した回数が最も多いのは、既に有名なエピソードとなっている
1974年9月29日対南海戦第2試合(後楽園)の日本ハム・高橋博士選手の8回である。
この記録は中西太監督による消化試合の話題作り(公式発表で観衆7000人)ではあったが、
「一塁手-捕手-三塁手-遊撃手-二塁手-左翼手-中堅手-右翼手-投手」と1イニングごとに守備位置を変更
(最後回投手として登板1/3回投げ試合から退いた)、1試合ですべてのポジションを守った。
捕手で2回に南海・島野育夫の2盗を阻止したのをはじめ、ショートとセンターで1度ずつ無難に打球を処理した。
1964年宮崎商から南海に入団した高橋選手は捕手登録だったが、南海での実働7年間(1965〜1971)に
投手を除く8つのポジションを経験、さらに東映(1972)・日拓(1973)・日本ハム(1974)在籍3年間だけでも同様に
8つのポジションを守っていた。守備位置変更の詳細は下表の通り。
打順 | スタメン | イニング毎の守備位置 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一回 | 二回 | 三回 | 四回 | 五回 | 六回 | 七回 | 八回 | 九回 | ||
1 | 島津 | (中) | → | → | → | → | → | 左 | 中 | → |
2 | 千藤 | (右) | → | → | → | → | 二 中原全 | → | → | → |
3 | 高橋博 | (一) | 捕 | 三 | 遊 | 二 | 左 | 中 | 右 | 投 投 渡辺 |
4 | 大沢 | (捕) | 一 大杉 | → | → | → | → | → | → | → |
5 | 岡持 | (左) | → | → | → | → | 右 | → | 左 | → |
6 | 相本 | (遊) | → | → | 二 | 遊 | → | → | → | → (打 加藤) |
7 | 八重沢 | (三) | → | 二 | 三 | → | → | → | → | → |
8 | 鵜飼 | (投) | 投 皆川 | 捕 村井 | → | → | → | → | → | → |
9 | 新屋 | (二) | → | 投 保坂 (打 小山田) |
投 三浦 | 投 野村 (打 吉田) |
投 宇田 | 投 森中 | 投 江田 (打 末永) |
右 大室 |
なお、この試合で中西監督は8回まで投手を1イニングずつ投げさせてもいるが、試合は一方的な展開で敗れている。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 |
南海 | 4 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 |
日本ハム | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
高橋博士選手の記録に続くのは1999年9月3日対近鉄戦での西武・清水雅治、高木浩之両選手。
清水選手は「(代走-指名打者)-二塁手-三塁手-二塁手-三塁手-二塁手-三塁手-二塁手-三塁手」、
高木選手は「(代打)-三塁手-二塁手-三塁手-二塁手-三塁手-二塁手-三塁手-二塁手」と
3往復半(7回)セカンド-サードを行ったり来たり、それも9回から延長12回までの4イニングで記録している。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 |
西武 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 10 |
近鉄 | 4 | 0 | 1 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 10 |
打順 | 8回までの選手起用 | 9回表の選手起用 | 9回裏の守備位置 | 10-12回 |
---|---|---|---|---|
1 | (指) 赤田→打指 ポール | 走指 清水 | 二 清水 | 三二三二三二三 清水 |
2 | (中) 大友 | → | → | |
3 | (遊) 松井 | → | → | |
4 | (三) 鈴木 | 走 小関 | 右 小関 | → |
5 | (左) 平塚 | → | → | |
6 | (一) 高木大 | → | → | |
7 | (右) 垣内 | 投 西崎 | 打 和田→投 竹下 | |
8 | (捕) 伊東 | → | → | |
9 | (二) 原井→打 大塚→走二 上田 | 打 高木浩 | 三 高木浩 | 二三二三二三二 高木浩 |
- | (投) 西口→潮崎→土肥→デニー→橋本 |
延長12回、当時のパリーグ最長となる5時間19分、結果的に引き分けた一戦、
逆転優勝へ望みを繋ごうと執念を見せる西武・東尾修監督は3点を追う9回表の攻撃で、
9番上田に高木浩を代打に送ったことにより登録上の内野手をすべて使い果たしたが、
さらにポールに代走清水、サードを守る鈴木に代走小関を起用したためベンチに残る野手は
捕手の中嶋と和田の2人だけになった。
この攻撃が実り松井、鈴木のタイムリーと平塚の犠牲フライで同点に追いついたものの、
その裏の内野守備は苦しい布陣となり、プロ入り当初は内野手だったものの1996年以降の3年間
外野専門だった清水雅治選手を指名打者を解除する形でセカンドに起用した。
ここから始まる清水・高木浩両選手の「行ったり来たり」起用に関しては詳しい状況を知らないのだが、
近鉄の打線が「吉田-高須-中村(のちに勝呂)-ローズ-クラーク-礒部-吉岡-古久保-大村」と左右ジグザグで、
清水選手の守備を考慮し頻繁に両者の守備位置を変更したと考えられる。
西武の2選手と同じく、7回守備位置を変更したのは1960年8月16日対読売戦での阪神・藤本勝巳選手。
「右翼手-左翼手-右翼手-左翼手-右翼手-左翼手-右翼手-一塁手」と移動したが、この外野間の3往復に
付き合わされたのはM.ソロムコ選手(「左翼手-右翼手-左翼手-右翼手-左翼手-右翼手-左翼手」)だった。
昔読んだ記録本によると、この変更は前年までほとんど一塁を守っていた藤本選手の外野守備に不安を感じた
金田正泰監督の采配ということだったが、実際に誰の打席で変更したかは記述がなかったように覚えている。
ちなみに当日の読売の打線は、「与那嶺(左)-広岡(右)-宮本(右)-長嶋(右)-坂崎(左)-王(左)-藤本(右)-森(左)-堀本(右)」。
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 |
阪神 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 |
巨人 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | X | 3 |
回 | 場面 | 打者 | ポジション変更 | 結果 | |
---|---|---|---|---|---|
藤本 | ソロムコ | ||||
2回裏 | 2死2・3塁 | 堀本 (流し打ちが上手い という理由から) |
(右)→左 | (左)→右 | セカンドゴロ |
3回裏 | 2死 | 長嶋 | (右)左→右 | (左)右→左 | ヒット(「背番号・・・」には四球と あるが、スコアではこの試合で 長嶋に四球は記録されていない) |
〃 | 〃 | 坂崎 | (右)左右→左 | (左)右左→右 | 代打藤尾 |
〃 | 〃 | 藤尾 | (右)左右左→右 | (左)右左右→左 | サードゴロ |
4回裏 | 先頭打者 | 王 | (右)左右左右→左 | (左)右左右左→右 | ? |
5回裏 | 1死 | 広岡 | (右)左右左右左→右 | (左)右左右左右→左 | 左中間の打球をソロムコは 一旦グラブに入れながらも落球 (記録は二塁打) |
6回裏 | 先頭打者 | ? | - | 左 伊藤 | - |
7回裏 | 先頭打者 | ? | (右)左右左右左右→一 右 大津 |
- | - |
結局、この試合で藤本のところへ打球はひとつも飛んで来なかったようである。
また当日の朝日新聞には、この日の藤本のポジション変更7回は、
南海・簑原宏(1952年6月25日対近鉄戦 「(中)右三右三」)、
読売・土屋正孝(1960年6月16日対大洋戦第1試合 「二三二三二」)、
大洋・近藤和彦(1960年7月17日対読売戦第1試合 「(一)中一左一」)の4回を抜く新記録と書かれている。
なお、上の()内に記した3選手の守備位置変更のデータは私が調べたもので朝日新聞には掲載されていないが、
従来の記録がこの3選手だけだとすると、1949年4月9日対大映戦に千葉茂が記録した「(二)三二三二」は
公式ではどう扱われているのか疑問が残る。
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