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左腕投手がサードを守った?

1971年のデータを収集中、6月24日の新聞を見て「ん?」と思った。

6月23日読売-大洋
第1試合(後楽園)
中塚
⑥565 野口
江尻
松原
近藤和
R7 重松
近藤昭
ワーハス
R6 飯塚
PH 安田
6 米田
15 平岡
6 松岡
大橋
①51 平松

平松政次の「①51」は問題なかったが
平岡一郎の「15」は最初誤植ではないかと思った。
何故なら、平岡は「王キラー」として有名な左腕投手だからで、
この試合で左投げの選手が本当に三塁を守ったのだろうか?

プロ野球史上、左投げの選手で一塁を除く内野を守ったのは、

  • 大東京・ライオンの鬼頭数雄 (二塁手で24試合)
  • 阪急・山田勝三郎 (1936年4月29日対セネタース戦、二塁手)
  • セネタース・金子裕 (1938年9月24日対巨人戦第2試合、二塁手)
  • 阪急・山田伝 (二塁手で6試合)
  • 朝日・森本清三 (1944年4月16日対阪急戦、二塁手)
  • 毎日・西本幸雄 (1951年8月16日対西鉄戦、二塁手)

以上の6選手だがいずれも二塁手、平岡投手は7人目で三塁手では初?

ところが、試合経過を記事で読むと・・・

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
大洋 0 0 0 0 1 0 1 0 0 0 0 2
読売 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 2

延長11回引分けに終わったこの試合、問題の起用は9回裏先頭打者・王を迎えるところから始まる。
別当薫監督はここまで王に3-3と打ち込まれている先発平松を打球がまず飛んでこないサードに入れ、
マウンドには平岡を送った。

平岡は注文通り王をファーストゴロに仕留め、これでお役御免かと思われたが、別当監督は
「平松をピッチャーに戻し、平岡をサードへ」と主審に交代を告げた。
このあと高田-末次-上田-阿野と右打者が続くのに左の平岡をまだ使う場面があるのだろうか・・・

場内がざわつくなか高田が打席へ入ろうとしたその時、再び別当監督は主審のもとへ歩み寄りこう告げた。
「平岡に代えてショート松岡、ショートの野口がサードへ回る」

実はこの「サード平岡」という守備位置変更は、打者1人分だがサードを守り投球を休んでいだ平松に
余分に投球練習をさせる時間稼ぎに利用されたもので、結局平岡投手は形式上サードの守備についたものの
実際にプレーはしていないのである。

現在では、実際にその守備位置につきプレーしないと出場試合数にカウントされない
(例-1回表の攻撃中故障などで退場し、その裏の守備につかなかった場合など)が、
1976年以前は平岡のように名目上の守備位置(偵察メンバーとしての出場も)もカウントされている。

また、毎日新聞には「別当魔術」と書いているが、現在では遅延行為と取られかねない采配だろう。
ちなみにこの試合時間は3時間22分だった。

朝日新聞に掲載された平松投手の弁
「三塁を守ったのは初めて。平岡に三塁前のバントに気をつけろ、といつも僕が言っている事を言われて、
すっかりあがってしまった。何もなくてよかったです。」

追記

1957年4月28日対阪神戦(甲子園)、左投げ・左打ちの国鉄・石田雅亮選手が「2番・ショート」でスタメン出場、
1回表の打席に立った(成績は1打数ノーヒット)が、その後ショートは大久保英男選手に交代している。
日刊スポーツにはこの起用に関して詳細が書かれていないので石田はショートの守備にはついていないものと
考えられる。開幕から前日まで国鉄は阪神戦に4連敗しており、初回の攻撃に賭けたのではないだろうか。

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