はじめに (2015.10.29 全文改訂)

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野球は数字のスポーツ。試合自体を楽しむのは勿論、スコアやチーム・個人成績等のデータを見るのを楽しんでいる方も多いでしょう。
そして1936年から公式戦が始まったプロ野球の歴史に蓄積された記録・データは膨大なものになります。

しかし、NPB公式HPに掲載されているデータ量は満足できるものでは到底なく、http://www.baseball-reference.com/japan/ の方が
内容的に はるかに充実しています。ちなみに、このサイトのデータは2004年を最後に刊行がストップしている
「The official baseball encyclopedia 日本プロ野球記録大百科」を参照していると思われます。

一軍公式戦の試合毎のスコアを知るには、1リーグ時代(1936-1949年)の「日本プロ野球記録大全集 The baseball encyclopedia (第1期)」
(1985年)と、1981年のシーズン分から毎年末発売されている「ベースボール・レコードブック」(この前身として「日本プロ野球1976-1978」有り)で
カバーできますが、それ以外の年度については図書館所蔵の過去の新聞を見るしか手立てがありません。

ネット上では個人サイトの日本プロ野球記録 様がスコアをコンプリートされました。

「すべてはベストプレープロ野球から始まった」

私がデータ収集にのめり込んだきっかけは1988年アスキーから発売されたファミコン版「ベストプレープロ野球」でした。
プレイヤーとしてより監督あるいはスコアラーとして遊ぶ方が好み(COM VS COMでも十分楽しかった)なので、このゲームには相当な時間を費やしましたが、
与えられたデータだけではなく過去の選手を加入させたり1チームそのまま持ってきたりと、最大の魅力である編集を施して遊ぶ事にシフトしていきました。

最初は、昔の選手のポジション・打順はプロ野球記録大鑑(昭和11年‐平成4年)を参考にしていましたが、そのうちマイナーな選手
(1シーズンの出場が 100試合、打席数200くらい)が何試合スタメンで出場したか、何番を打ったか、外野手ならレフト・センター・ライトのうち
どのポジションを守っていたのかなど 詳細なデータを入手したいと思うようになりました。

そこで私は地元の図書館に通いつめ、2リーグ制が始まった1950年からの試合のスコアを読売・朝日・毎日3紙のスポーツ欄でチェックし
データを収集しました。 守備位置の表記などに食い違いがある時は産経・神戸新聞も参考にし多数決で多い方をデータとして採用しました。

調査項目は以下の通りです。

・投手「先発・打順・救援・(登板試合以外に出場した)代打・代走・偵察メンバーとしての起用」、

・野手「スタメン-守備位置・打順、途中出場-守備/代打/代走などの出場形態、試合途中の守備位置変更」

なお試合毎に選手の残した成績に関しては、調べ始めるといつまで経ってもデータ収集が終わらないので泣く泣く断念しました。

その後、データの精度を上げるために国立国会図書館(東京・京都)や横浜市立中央図書館にも遠征し現在に至ります。

当サイトのコンテンツ
新聞掲載のスコアについて

資料集作成のために図書館で昔の新聞を調べていて気づいたことですが、1950年代の一般紙のスポーツ欄に掲載されているスコアでは
途中出場した選手の守備位置の表記が今とは異なり、守備から就いたのか代打や代走で起用されてから就いたのか区別ができません。

例えば途中出場のレフトの場合、現在では守備から入る「7、左」、代打で出てから入る「H7、打左」、代走で出てから入る「R7、走左」という風に
区別されて表記されていますが、1950年代の新聞ではすべて「7、左」で統一した表記になっています。

一般紙で今のような表記がされるようになったのは私が調べた限りでは1960年の朝日新聞からで、他紙は朝日より数年遅れて採用しました。
資料集のデータ収集(途中出場選手の守備位置に関して)は1960年からの数年間朝日新聞だけが頼りで、この期間のデータには少々弱さがあります。

スポーツ新聞であればもっと早くから区別されて表記されているかも知れないと思い、実際にこの年代のスポーツ紙を見た方に教えていただきましたが、
一般紙の打撃成績が「打・安・点(あるいは失)」の3桁表示なのに対して「振・球・犠・盗・(失)」を加えた8桁表示だったものの、肝心の守備位置の区別に
ついては一般紙と同じということでした。

その後、日刊スポーツ・中日スポーツ・西日本スポーツをチェックし可能な限り修正を加えましたが正確なデータには到達出来ていないのが現状です。
なお、当サイト・資料集においては1959年以前のデータを扱う時、途中出場の「7」「H7」「R7」をすべて「★7」と表記しています。

ちなみに、1991年刊行の「阪神タイガース 昭和のあゆみ」の資料編には1936〜1988年の阪神-巨人戦全試合のスコアが掲載されているのですが、
そこでは1937年からすでに「7」「H7」「R7」の区別がなされており、データとしてNPBは持っているようです。

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偵察メンバーの扱い方

2013年からセリーグも予告先発制を採用したため現在では偵察メンバーの起用が無くなってしまいしたが、昭和後半のプロ野球では三原脩、西本幸雄、
金田正一、D・ブレイザーといった監督達が偵察メンバーを駆使し公式戦を戦っていました。

俗に「当て馬」と呼ばれる偵察メンバーはほとんどがその日登板予定のない先発投手陣でしたが、第3の捕手(ブルペンキャッチャー)もよく起用され中でも
渡会純男石山一秀両捕手の名前は有名です。

ただ、偵察メンバーが公式な記録としてどう扱われているのかは不明です。

記録本などでは野村克也選手の4番でのスタメン出場試合は2259とされていますが、この中には1978年9月3日対近鉄戦第1試合と8日対南海戦、
当時は許されていた指名打者への偵察メンバーの後、代打で出場した野村克也がそのまま4番に座った2試合が含まれているのです。

また、1993年10月3日対阪神戦、2日前の試合で死球を受け途中退場していた落合博満選手を中日の高木守道監督は3番・ライトの偵察メンバーとして
起用したことがあります。落合博満の出場試合数にはこの1試合も当然加えられていますが、外野手での守備位置別出場数には加えられていません。

さらに、過去には以下のような起用法も度々ありました。

「1回表の攻撃で偵察メンバーAに代わってB(打撃>守備)が代打で出場、大量点を奪ったその裏の守備にはBが付かず守備力のあるCが起用された」

「相手先発投手を右と読んで左打者をスタメンに起用したが実際には左投手だった為、1回の第1打席から右打者(実力的には左打者と同等)を代打に起用、
そのまま守備に」

これらの場合、スタメンの基準がNPBにあるならば公式記録では誰がスタメンとされるのでしょうか。

「The Official Baseball Encyclopedia」の個人成績の守備位置別出場数欄を見ればお分かりかと思いますが、1977年からそのデータの扱いが変更されています。

現在では実際に守備に就かないと出場数がカウントされません(1回表の攻撃中に負傷などで退場、交代した選手はその試合守備に就いていない)が、
1976年以前は普通に出場しても偵察メンバーで出場しても 同様にその守備位置に就いたものとしてカウントされ公式記録として表記されています。

当サイトおよび「日本プロ野球私的統計資料集」では、

以上のような理由から、偵察メンバーとして起用された選手に先発守備位置・打順をカウントし、後から出場した野手はスタメンとして扱わないことにしています。

したがって、前述の野村選手の4番でのスタメン出場試合数は2試合減り、落合選手は3番・ライトでのスタメン出場が1試合加えられることになります。

「日本プロ野球私的統計資料集」の表記がどのようなものか、2007年の横浜の2投手を例に挙げて説明します。

<偵察メンバーとしての出場の詳細なし>
寺原隼人
@ 27
(偵察) 10
37
年間 144
(9) 24
先発 27
吉見祐治
@ 12
,1 26
(偵察) 7
45
年間 144
(9) 11
先発 12
<偵察メンバーとしての出場の詳細あり(npbstk資料集)>
寺原隼人
@ 27
F 4
H 6
37
年間 144
(3) 1
(5) 2
(6) 1
(7) 6
(9) 24
先発 37
吉見祐治
@ 12
,1 26
F 1
G 1
H 5
45
年間 144
(5) 2
(6) 1
(7) 4
(9) 11
先発 19

公式記録では27試合に登板した寺原選手の出場試合は37試合、38試合登板した吉見選手の出場試合は45試合となりますが、偵察メンバーとして出場した
寺原選手の10試合と吉見選手の7試合の詳細は特に記録されていません(ごく稀に投手が代打・代走で起用される事もありますがそれらとの区別もありません)。

それに対して資料集では、偵察メンバーがどのポジション・打順で起用されたか詳細が分かるように集計しています。

公式記録の表記とは異なりますがご了承下さい。

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